院長の独り言【2002年 平成14年】

<院長の独り言 パート2> 

今日は趣味についてちょっと触れてみたいと思います。医師になってからほとんど趣味らしい事をしていない今の自分に嫌気がさしてきます。学生時代は勉強とはほぼ縁遠いくらいスポーツや音楽を勤しんでいました。あの頃を懐かしむ歳でもないし、ましてやそんな余裕さえ私は今年で40歳。つまり人生の中間点に位置しているかもしれません。

学生時代の趣味は小学生の時には切手集めや山川へ虫採取(タガメやゲンゴロウ探しあるいはカブト虫、セミを採取)しにそしてスポーツは球技なら何でも得意でした。また中学生に入れば水泳やテニス部に所属し冬はスキーにと多忙に遊び回っていました。そして高校生、若い頃から武道に興味のあった私はどうしても空手か剣道がしたくて、剣道部に入りました。ここから私の人生は大きく変化しました。剣道をはじめてすぐに先輩に実力を量られるための練習試合を強要されましたが私の相手は中学生から剣道をして初段をもっているO君でした。この時如何に一生懸命たちむかおうとも、いとも簡単に右のこて(手)をO君に2回切り落とされ負けました。いわゆる惨敗でした。この時の技を『出ばなごて』といいます。この時学習と悔しさを刻み込みました。そしてすぐに地区大会があり、また城南高校の一年生の有段者に立ち向かい相手が見せて誘っている小手にみごとにはまり打ち込むとかわされ面をとられました。同じ技で2本とられ惨敗でした.先輩には同じ技でやられる等どういうことか? とこっぴどく叱られたのを今でも覚えています。この時やられた技を『小手抜き面』といいます。こうやって学習を積み重ねました。その時に思ったのは、

1、技の名前をしること(やはり無知であったと反省しました)。
2、基礎体力をつける事(黙ってクラブ練習後家で親には勉強をしているふりをしながらこっそり体力づくりをしていました)。
3、そして最終目標は勝つ事でした。

その夢は1年後から達成できました。私は初段をとり、京都大会で初段以下の部4位になりました。そしてO君と城南高校の彼にもお返しをきっちりできました。
もうひとつ大きな趣味としては音楽です。音楽は字のごとく音を楽しむと書きますが、ひとそれぞれ楽しみ方が異なります。私には音を聴くから始まり、音を演奏する、音をつくり出し演奏するの3つの過程がありました。音との出会いから始めます。

私はいわゆるくされ縁とでも言うべき友が何人かいます。そのなかでもI君というこの自分勝手でありながら妙に魅力的な奴がおそらく一生の友になるであろう事は間違いないでしょう。彼は私の自慢の連れでもあり、恩人でもあります。京大経済学部卒→大阪電通本社勤務→京都電通勤務 といわゆるエリートですが、実際にはそんな雰囲気のかけらさえ持ってない彼です。彼は唐突にわたしに2枚のレコードを高校2年生の夏に渡しました。
一枚はOff Course 『Three  and  Two』

もう一枚はTuLIP 『TULIP Garden』という2枚組のアルバムでした。
なぜ彼が私にすすめたかは知りません。でもその音、サウンドに私はとてもびっくりしました。
TULIPは中学生の給食の時間に聞いていた『これ誰のなんて曲だろう。知りたいな-』と心に残っていた曲のオンパレードで,特に今でこそブレークしましたが『サボテンの花』が知りたい曲だったのです。当時TULIPなどというバンドはどの人も知らない人がほとんどで,知っている人が仮にいたとしても軟弱な代名詞として知られていました.オフコースも然りです。そのもう一枚のOff Courseは中学生の当時、FMラジオ番組『コーセイ化粧品歌謡ベストテン』で始めて『愛をとめないで』を聞き天使のような澄んだ声を耳にしたのであります。

今の世代レトロなイメージでもはや26年前に初回リリースされた私が好きになった曲『サボテンの花』がブレークし、あの当時TULIPを好きだと言っていた私を軟弱にみていた人たちが多分ヒットしたことで見直してくれたかもしれません。また一方のOff Courseも『愛をとめないで』『さよなら』『Yes No』などは知られるところですが、他の曲をほとんど知らない方がほとんどでした。今は小田和正として『Lovestoryは突然に...』『Wow Wow』『きらきら』など知らない人はいないでしょう。

この私の人生に多大なる影響を与えたであろう2つのバンドは共通の特徴があります。まずデビューからアコーステイックで簡単な音から始まっていること(ギター一本で始まり、コーラスサウンドが主体です)。認知度が全く乏しかったこと(遅咲きのバンドでブレークまで30年近くである)、数曲のヒット曲もあったけれどテレビ出演はけしてしなかったこと(今は歳を重ねてでていますが、当時のテレビはどちらも数少なくライブビデオが2-3本しかない)など…

一方私は高校生時代にバンドを発足し、夏冬休み毎に京都でコンサートを開催しました。今思えば『なんて下手な』『ようこんなん人に聞かせとったなあ』と思うような演奏と歌です。そして大学に行き自作自演の曲をつくりました。

→聞きたい人はこちらから(ファイル容量3M)

久しぶりに曲を聞いています。もう自分でつくったにも関わらず引くことも歌うこともできない曲を…そして懐かしさと同時にまたゆとりができたら下手でもいいから音楽をしたいと思っています。1985年頃につくった歌です。ジャンルはニューミュージックですが、一度聞いてみて下さい。感想等ありましたらまたお教え下さい。自身でなぜ曲を創るのか?私は常にSinger Song Writerが目標でした。なぜならつくった人がその時の状況を最も肌で感じており、そして演奏し歌う。他人に提供する歌は提供された側もその時のつもりで歌う。この違いは大きいと思っています。また自分で創った曲はいわゆるオリジナルであります。これは女性の贈り物、手編みのセーターやオリジナルの料理などに似ています。男性ができることは少ないですね。そういう意味でもオリジナルは素敵なのです。趣味はいま一つに集中している仕事があるので見事な程今はできないもどかしさがあります.でもいつか必ずという気持ちで今でもいます。この曲を聞くと若くて一生懸命で下手な演奏、下手な歌の私がいとおしく感じられるように思えます。下手だからこそ、パーフェクトでないからこそいとおしく思える事、ライン入力皆さんにはありませんか?

曲紹介

『1ページの恋でいるなら...』 

→聞きたい人はこちらから(ファイル容量3M)

ALL Word : Toyonori Saiki  ALL Music: Toyonori Saiki 
Player ;  Band Name : SPRINKLER
Drums   Hiroshi Inui (All)
Bass    Takuji Takemoto (1. )   &  Takumi Hayashi  (2.,3.)
Guiter    Kenzou Fuse (All)
Keyboard    Toyonori Saiki   (All)
Lead Vocal    Toyonori Saiki   (All) Norifumi Miyagi (1.→Part 2 )  
Chorus    Norifumi Miyagi (1. )   Toyonori Saiki   (All)

平成14年9月12日

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<院長の独り言 パート1>

開設以来、およそ10ヶ月が過ぎました。皆さんお元気ですか?

我々さいきクリニックは今日も患者様と話をするのが楽しみの毎日です。医学診療は患者様の人生に触れる 事だとつくづく感じています。自分をうまく表現できない方、自身をあまり見せたくない方もなかにはおら れるのですが、ほんの一部の方にすぎず、遠慮 をしながらあるいははにかみながら等...身体に心に哀 しみをもつ方は何らかの自己表現法をとって我々に診せて下さいます。それは家族の事であったり、自分の 事であったり、仕事の事であったりでつまりは自分をとりまく環境からくるものがこんなに多いのか? と 思わせるほどのことです。自分達医療従事者はなおさら強く生き、患者様のお手本になるよう生きていかね ばならないとつくづく思う今日この頃です。
参考になるか否か?少し短文作文をしてみます。

『夢を感じて...』
読者の皆様、皆様は夢をお持ちですか? また他人に夢を与えていますか? 感動に直結するもの、それは私は夢だと思います。そしてそれがかなうかなわないの問題ではありません。どんな些細なものでもいい、常に夢をもち続ける事がつまり感動を与え生きているという自覚を得る最上の方法なのです。決して病にかかったからとかあるいは思いどおりにことが運ばないからなどで、夢を捨てないで下さい。現実の世界に完全に引き込まれないで下さい。人が人たるゆえんは自由な思想を持ち、他人と違う何かをもち続ける事なのです。
同じ夢に向うのもいい事です。でも独自のホラといわれるくらいの変人になってみては如何でしょう?
とにかく実例を3つあげてみます。

1 野球小僧たち(第1章:夢を叶える事)
その野球部員は小さな町から何気なく始まった。9人の少年達はどんな思いで集まったかは今となっては定かでないが始まった野球部においてまず1勝をするために猛烈に練習をした。来る日も来る日も泥まみれになり、怪我をして慣れない身体にむちを打って練習を行った後0勝のチームは始めての1勝を2年後にあげる事になった。
その時部員の皆はもちろんのこと監督あるいは部員の家族、友人達は皆狂喜乱舞した。一つの夢・1勝を得るために皆で努力をし勝ちとったものだから、どんな1勝よりも価値があるものであった事は言うまでもない。

2 テレビドラマのドリームメーカー達(第2章:夢を与える事)
皆様は北川悦吏子、鎌田敏夫など有名脚本家を御存知の方も多いと思います。以下に皆様がご記憶と思われる代表ドラマを並べてみます。

北川悦吏子:あすなろ白書、愛しているといってくれ、ロングバケーション、最後の恋、Love Story、空から降る1億の星。

鎌田敏夫:俺たちの旅、太陽にほえろ、金曜日の妻たちへ、男女7人夏&秋物語、ニューヨーク恋物語など

このドラマを見て自身に重ね合わせて涙した人、数知れずと思います。夢を売る商売、ドリームメーカーの先生達です。人生に起こりうるあらゆる困難やシュチュエーションは同化作用で皆様を夢の世界へ引き込み、夢を与えているのです。  

3 師と尊敬できるある女医の物語り 1と2(第3章:夢を叶え→完成系へ)

師と尊敬できる女医先生お二人の話です。
一人は私の近い親戚で祖母。夫であり医師であった祖父を亡くし医師になるために単身京都へでて成功をおさめました。大正生まれの祖母にとって当時は女性に対しては男尊女卑がはびこっていた時代で大変窮屈な思いをしながら、男性に負けない仕事を後家さんの立場で行い、娘、息子ばかりかその孫あるいは配偶者全てを養っていました。いつも夢を持っていて、成功をおさめてからというもの、幅広い趣味をこなし、仕事を行う。生涯どんなに歳をとろうと夢を持ち続けていた祖母の生き様は肉親でなくとも共感を覚えたでしょう。ある時はホラに近いような事も言っていました。
結局祖母は脳硬塞で肺炎を併発し、亡くなりましたが多大なる影響を家族に与えていました(私もその一人です)。

もう一人はこの福山に来てお会いした女医先生です。特別深いおつき合いはしておりませんでしたが,ある医師会の地方会に出席させて頂いていた折にお話を聞かせて頂きました。自身の御考えをしっかりお持ちで、特にその夢に向かって迷う事なく邁進しておられました。『私はね、毎日多くの患者様の往診に出かけて色んな人生を勉強させて頂いてるの。在宅や福祉に興味があって高野山の近くにも近々事業を起こそうと思っているの』と笑顔でおっしゃいました。
その先生が先日永眠されました。癌との壮絶な戦いが最後でしたが、先生は人におっしゃるだけでなく、人としての生き様をみせられました。おむつも膀胱カテーテルも拒絶し、苦しいであろうに自身で排便に行かれる。自身でもって人が『生存する』のと『生きる』との違いを見事に道しるべを記された。夢、志半ばな点はあったかも知れませんが、素晴らしく強く素敵な先生が素敵な人生を記されたのでした。女性をテーマに2人の事をここに記したのはどんな状況であれ志と夢を持っていれば男性に限らず女性であっても事をなし得るという思いとまた逆に今の女性進出時代にあって女性はむしろ甘えを捨てて生きねば成功は程遠いことを知って欲しいからでした。夢、志半ばな点はあったかも知れませんが、素晴らしく強く素敵な先生が素敵な人生を記されたのでした。

4 最後に
夢は思うのは勝手です。まず持つ事から始まります。ホラと言われるくらいの夢は素敵です。でも叶えるのは相当な努力がいります。そして完成させるにはさらに大変な努力が必要になります。だからこそそこに涙がにじむくらいの努力があるからこそ素敵ですし、人に大きな感動と幸せを運ぶのです。

人生をつまらないと感じている時が必ずみんなにあって、そんな時少ししんどいでしょうが夢をもつことに専念しては如何でしょうか? 前述の方々の前例をみて我々学ぶことはたくさんあるとつくづく思う今日この頃です。

病も吹っ飛ぶくらいに夢を持ちましょう。ね、皆さん.....

平成14年8月吉日

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